光崖−必然の蜘蛛の糸1




気持ちのいい朝。
透明な風のうねりが、塔の上階の彼の部屋に流れ込む。
開け放たれた窓の薄絹のカーテンのはためきを手で押さえ、緑の衣の少年は目を細めた。
いい風だ。
眼下の樹海の朝の匂いがする。
露の匂い。
新緑の匂い。
苔の匂い。
かすかに、花の匂い。
少年は僅かに口の端で笑むと、踵を返した。


「レックナート様、お目覚めですか」
重い最上階の扉を前に、少年は礼儀正しく問い掛ける。
その横には銀のワゴンを伴い、朝食の一式と、熱い湯を湛えた盆を載せている。
朝の、いつもの儀式。
そうして、答えが返ってこないことも、いつものこと。
少年、ルックは扉を前に軽く一礼すると、押し開いた。

ふわり、控えめな香の匂いがする。

「レックナート様、今日もいい天気ですよ」

ルックはすたすたと窓に向かう。部屋の中には重苦しいような薄闇が降りている。淡い薄絹の天蓋を幾重にも張り巡らせた寝台の両側には、消えることのない術炎の灯りがそっと点り。しかしその内側には何の変化もない。

ばさ。

無造作にカーテンを引き、彼は窓を押し開く。
さ、と部屋の中に光りが射し、淀んだ空気が窓へと流れ込んだ。
きらきらと空気中の埃が日光を反射してきらめく。
ざぁっとうねりをもって部屋の中に吹き込む風。
「!」
薄絹が、天蓋が、卓の飾り布が、風に煽られて舞う。
まるで、部屋中が深呼吸をするようにざわめいた。
そうしてゆっくりとそれが沈静化し、部屋は元どおりの静けさを取り戻す。
少年は先程と同じように目を細め口の端で笑むと、寝台に歩み寄った。
「失礼します」
取って付けたような断りをして、かき分けるように薄絹を上げる。
そこに居るのは。

美しい置物のような妙齢の女性。
流れ落ちる黒髪が寝台を伝わり床に届いている。
白い陶器のような肌と、長くぬれた睫毛。
紅い唇。
細い肩には淡い銀の上掛けをかけている。

彼女は、レックナートはじっと寝台の上で身じろぎもせず横たわっていた。

「……おはようございます」

まるで人形のように反応のないレックナートに挨拶をし、少年は傍らにワゴンを引き寄せると、熱い湯を湛えた盆に手布を浸した。
湯気。
じんと腕が痺れそうな熱い湯に眉を顰めると、布を絞り、それで彼女の手を包み込んだ。

白い、透明な指先にうっすらと朱が上る。
その甲には、蒼く沈む真の紋章。

ルックは無表情に、両の手を拭き、顔を拭き、足を拭き。
淡々と主人の肌を拭き清め、彼女の髪を梳き、衣服を整える。

毎朝の儀式。
ルックの、そしてレックナートの。

いつからだろう。レックナートが己を失ったのは。

きっかけはウィンディの死だった。
あの日から。
あのおどろおどろしい夕闇に見えぬ目を見開き、レックナートははらはらと涙を零した。飛来したウィンディの門の紋章がその左手に宿り、唐突に昏倒した。
そうしてその日を境に彼女は徐々に己を殺していった。

朝、決してルックより後に起きることなどなかった彼女が起きられなくなり、日中、ことん、と意識を失ったまま目を覚まさなくなった。
そうして日がな一日寝台で意識を失っている日が増え、三年も経つ頃には月の半分を寝て過ごすようになっていた。

目的を失ったせいだろうか、とも思う。
ウィンディという目的を失い、彼女は生きていく気力を失ってしまったのだろうか。
その両手には蒼い、門の紋章が刻み込まれている。
死を放棄した彼女は意識を手放すことで、かろうじてそのバランスを保っているようだった。

別に、まあそういう事もあるのだろうと思う。

生きていかなくてはいけない、死ぬことの出来ない真の紋章持ちは、その異常なバランスを己の何処かで取らなくてはいけない。人としての器を越えた力を備えるひきかえに、人としての何かを失うのは当然の代償とも言える。
レックナートの場合、それが意識であっただけだ。

意識があろうとなかろうと、その人がその人であることに変わりはない。

流れ落ちる黒髪を梳いて、その前髪を整え、ルックはその閉じられた瞼を見つめる。

眠ったままであろうと、彼女がルックを拾ってくれた事実は変わらないのだ。





時はすでに解放戦争からはるか百年を数えようとしている。
この百年の間に、いくらかの戦乱があり、幾つかの国が立ち、幾つかの国が滅びた。赤月帝国しかり、トラン共和国しかり、ハイランドしかり、都市同盟しかり。
今では彼女は年に数えるほどしか目を覚まさない。
彼女が覚醒するのは、予言を残す時だけ。
数え切れない歴史の変革期に、彼女は必ず目を覚まし、言葉を告げ、あるいはみずから出向いて、元来の予言者としての役割を果たした。
そして、それ以外の行動を一切しなくなった。
目を醒ます、予言をする、あるいは、予言者としての行動を起こし、再び昏倒する。
次の、予言の時まで。

わたくしに出来る事は、観ることだけなのです

かつてそっと呟いた彼女の言葉そのものに、観るだけに、今彼女は存在している。
観る事。
告げる事。
それだけが、今の彼女を現世につなぎとめている。
そこに彼女の意識は果たして存在するのだろうか。
それとも、それさえも門の紋章の意志なのだろうか。

蒼い、蒼ざめた両の手の紋章。
世界に27しかないとされる真の紋章。
そのふたつまでもをひとつ身に宿した彼女は、代償として何を支払ったのだろう。
彼女は、彼女の閉じてしまった意識は、紋章によって彼岸に捕らわれているのかもしれない。彼女の紋章が彼岸と此岸をつなぐものならば、或いは捕らわれる場所は彼岸ではなく、狭間かもしれない。

代償なのだ、それは。
当然の。


ルックは己の右手を押さえた。
その甲には、翠に輝く真の風の紋章がある。

己もまた同じ。

……何を失ったのか、自分にはまだ分からないままだけれど。
何を失おうと、かまわない。
それだけのちからが、この右手には宿るのだ。
人としての器を越えた力が。
しかしそれは、とてつもなく危険な起爆剤を身のうちに持つ事でもある。
それを、自覚しなくてはいけない。

「……ルック」

は、と我に返る。
世界が急に動き出したような眩暈。
くら、と額を押さえ、レックナートを見た。
彼女はまったく同じ体勢で、横たわっていたけれど。
明らかにその陶器のような肌から立ち上る何かがあった。

ぞくり、とする。
言い知れぬ存在感と、戦慄。
彼女が、何か、世界の中心に触れている感覚。
予言、だ。

「レックナート様」

「……ルック。始まりの紋章が、壊れ掛けています……。その中心に、僅かについた亀裂が、ゆっくりと闇を押し広げています……」

その言葉が何処から響くのか、不安になる。抑揚のない、ただ告げるだけの声。そこに彼女の意志はない。
僅かな囁きのような声なのに、それはまるで鈴を振る音のようにルックの意識の中に直接分け入ってくる。
彼女は空間に、その白い腕をゆっくりと差し伸べた。
何かを暗示するように。

……始まりの紋章……。それは、あの少年が宿している。
ちら、と脳裏に強い眼差しの横顔が浮かぶ。不敵に微笑んで、或いは邪気のない笑顔を湛えて、己の道が唯一の道であるといわんばかりに自信に満ちた少年。
……あの厚顔者に、亀裂?
ルックは少し、眉を顰めた。

「……ふたつに、再び裂けるかもしれません……刃と、盾が、相反して渦巻き……ああ。少年は己を見失う……」

不意にルックは己の背後、後頭部のはるか後方に何かを感じた。
空間に広げたルックの風の腕に、異常が感知される。
何かが撓むような感覚。
空間の何処かが撓んで、弓なりに力を溜めている。
ゆっくりとその、溜められた力は育っていく。
何時か、何かをぱき、と割ってしまうほどに。
ぞくり、とした。
その育つ力の強大さに。
その育つ力の闇色の深さに。
……危険なモノ。

「ルック……行きなさい。行って、その顛末を見届けるのです……願わくば、少年に良かれと思う道を示して……」

震えるように宙に伸ばされた白い腕が、ぱたり、と落ちた。
同時に、ふ、と身を縛る緊張感が綿のように融ける。
力の感覚も霧散する。
レックナートが再び意識を手放したのだ。
ルックはレックナートを通して異常を感知したのか。
そこには元どおりの横たわった植物のような彼女。
ルックは軽く頭を振って、わかだまる頭痛の波をおいやった。

「仰せの通りに……」

ため息を吐いてその腕をそっと上掛けの中にもどす。いとおしむ様にその肩を撫でつけ、少年はす、と立ち上がった。

「……さて」

腕を組むと、少年は中空を軽く睨んだ。




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